クンユアム郡警察署長に赴任

1995年にクンユアム郡警察署長として赴任したチューチャイさんは、郡内の各家庭で、旧日本兵の水筒や外套(がいとう)、毛布、鉄製ヘルメットなどが保管されているのに気づいた。

聞き取りを進めると、これらの品々は、旧日本兵が食糧や果物と引き換えに地元のタイ人に与えたものだった。また、アジア諸国に伝わる旧日本軍の「蛮行」とは違い、兵士と地元住民の関係は良好だったことを知ったという。友情がはぐくまれていたという。

自費を投じ、住民らから収集

チューチャイさんは「ここに日本兵がいて、タイ人と交流した事実を記録に残したい」と考えた。空き家だった郡の建物を旧日本軍の博物館にしようと思い立ち、戦時中の状況の調査を進めた。そして、博物館開設に尽力した。1996年、開館にこぎ着けた。

展示物の9割は、チューチャイさんが約100万バーツ(約270万円)の自費を投じ、住民から買い取ったり、ミャンマー領内からさび付いた軍用車両を取り寄せたりするなどして収集した。所蔵品は1000点を超えた。

インパール作戦

日本軍は1943年ごろから、地元のタイ人を雇用して道路建設にあたらせた。当時、1944年に始まった無謀なインパール作戦で状況が一変した。

インパール作戦とは、ビルマ(現ミャンマー)を占領した日本軍が1944年3月、インド東部にあった連合軍の拠点インパールの攻略を目指した作戦だ。

3個師団を投入したが、急峻(きゅうしゅん)な地形で十分な補給路を確保せずに断行した。敗走の際に3万人以上の日本兵がマラリアなどで死亡した。

ビルマ敗走してきた日本兵を住民が介抱

ビルマから敗走した日本兵が命からがらタイのクンユアムにたどり着くと、住民は介抱して食べ物を与えてくれたという。

ビルマでは、行き倒れた日本兵の遺体が散乱した。退却路は「白骨街道」と呼ばれた。クンユアムで日本軍が建設した道路は、その終着点ともなり、無数の遺体が横たわった。

第21師団工兵隊

日本の防衛庁防衛研究所によると、クンユアムに駐屯していたのは「戦史叢書(そうしょ)」に記述のある南方軍指揮下の第21師団工兵隊だった。遺品は第21師団工兵隊のものと見られている。